裁判員制度と速記録

電子速記研究会支部(元大阪地裁速記官) 石渡 照代

はじめに

裁判所速記官制度は、戦後の新憲法の下での新しい司法制度とともに誕生し、現在まで約60年間、法廷速記録を担ってきた制度です。
 アメリカやフランスなどで当時使用されていた器械(タイプ)による速記法に依拠して開発された(川上晃氏考案)ソクタイプによる速記法を最高裁が採用したものです。
 長時間速記をしてもタイプ符号は乱れない、書き癖もないので速記官なら誰でも読み返すことができる、というのが利点です。一説に、戦犯を裁いた極東軍事裁判では速記タイプによって記録が取られており、そのことに司法省が関心を持ったとも言われています。

 最高裁は1950年に速記官の養成を開始し、総数1519人の速記官を世に生み出しました。全国の裁判所には最高時で825人の速記官が配置されましたが、現在では次に述べる速記官の新規養成停止にともない270人と、その数は激減してしまいました。
 この間の経過など詳しく「守ろう!裁判所速記官」(現代人文社ブックレット)として発行しています。参考にしていただければと思います。

 さて来年5月から裁判員制度が始まります。参加する裁判員のみならず、訴訟当事者からも要望の高い速記録について、最高裁は「記憶の新しいうちに評議するので必要がない」としています。少し長くなりますが、これまでの経過も含めて書くことにします。

速記官の新規養成停止

 1997年2月、最高裁は速記官の新規養成の停止を裁判官会議で決定しました。
その理由とされたのは、
 ・ソクタイプの製造基盤が脆弱で作り続けられないこと、
 ・人材の確保が困難なこと、
この2つを挙げました。しかし、いずれの理由も根拠があるものとは到底思えないものでした。
 例えば、ソクタイプは主に裁判所だけで使用されていたので、製造台数はわずかと言えばわずかですが、製造会社の日本タイプライター社は「最高裁から発注があれば作り続ける」と明言していたわけですから根拠にはなりません。また5年前の1992年10月には、アメリカの速記タイプ製造会社であるステノグラフ社からNECを通じて速記タイプが最高裁に持ち込まれていたり,速記の調査に最高裁の速記官制度検討メンバーがアメリカの視察旅行を行っていたということから、輸入という手段があることも最高裁には分かっていたはずです。
 人材の面においては、1997年直前の3年間をみても、45人の採用に1000人を超す応募があったことから、確保が困難だったとは考えられません。
 そして最高裁は速記官の代替措置として、法廷での証言などを録音し、それを民間委託でテープ起こししたものを書記官調書に利用することを決め、更に、5~10年以内に音声認識ができるだろうという認識も示していました。

 このように速記官を取り巻く状況は大変厳しいものがある中、遠藤基資氏(元名古屋地裁速記官)によって電子速記「はやとくん」システムが開発され、1996年ごろから徐々に全国の速記官に広がっていきました。
 そこで私は、速記先輩国アメリカを訪ねて活路が見いだせないかと考え、参加者を募り、合計3回訪問しました。
 

リアル速記

 法廷見学や速記者・弁護士との交流と得るものは多大でしたが、中でも速記タイプ製造会社ステノグラフ社訪問は、その後の速記革命のきっかけとなりました。
日本では夢であったメモリー内蔵速記タイプ「ステンチュラ」と出会ったのです。遠藤氏とステノ社の間で技術公開の提携が行われ、日本語対応「ステンチュラ」が誕生し個人輸入の道が開きました。今では二百数十台の「ステンチュラ」が日本の法廷で活躍し、リアルタイム速記開発にもつながりました。

 速記官は進化した、最高裁も変化しなければと、今日まで、裁判所職員で作る全司法労働組合、速記官で作る同窓会、弁護士や市民とともに作る速記官制度を守る会などが養成再開を訴えてきていますが、「一度決めたこと」として撤回には至っていません。
 国会でも何度となく論議されていますが、根本的な解決には至っていません。
(歴史にもしはないけれど、停止決定の2年後に司法制度改革の大きなうねりがわき起こり裁判員制度の導入決定・・・これが逆転していたら、きっと結論は違っていたはず。)

裁判員制度の導入決まる-司法制度改革の中で

 2年後の1999年7月、司法制度改革審議会が内閣に設置され、その後、司法制度改革推進本部設置、立法作業へと進み、さまざまな分野の細部にわたって法律が改正され、既にほとんどが実行に移されました。
 この司法改革の目玉というべき裁判員制度の導入はしんがりを務め、いよいよ来年5月実施と迫ってきました。「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律」制定から約5年を経たことになります。裁判所、検察庁、弁護士会はこの5年間、制度の周知をはかるための取り組みをされていますが、国民の関心が低いというか、参加したくないという反応が多いように報じられています。
 他の改革の中身のほとんどは、裁判所を利用しよう、せざるを得ないという人にとってのアクセス改善や選択肢拡大などを占めており、唯一、すべての国民の参加を求めて、重大な刑事事件について「有罪か無罪か」、「有罪なら量刑まで」決めてもらおうという制度ですから理解が得にくいのは当然だろうと思います。

 私はもともと陪審制度のほうがよいと考えていましたので(理由は陪審員だけで評議する、有罪か無罪かを決めるだけで量刑は裁判官が決める)、裁判員制度には諸手を挙げて賛成ではありません。ですが司法の場にも国民主権が必要ではないかとの思いで参加はしていこうと思っています。
 参加するからには他の裁判員の方、裁判官の方とも対等に、長年この社会で生きてきたことを土台にして真剣に臨みたいと思います。
 そのためには速記録はぜひ裁判員の手もとに配っていただきたいと思います。
 私は記憶力の自信は全くありませんが、多分だれでも、非日常的な出来事を、非日常的な場面で、緊張を持続しながら、聞いたこと見たことをすべて記憶することは不可能だと思います。真剣に聞いていて、あれ?とか気に掛かると、多分その後の数分か数十分は意識が飛んでしまうのが普通ではないでしょうか。これが人によってその部分が違うということもあります。そんなことでどうやって納得のいく評議に参加できるというのでしょう。
 速記録を活用した評議の様子は「裁判員法廷」(芦辺拓・文藝春秋社)の「評議」の項でいきいきと描かれています。

DVD「裁判員制度を支える速記官~充実した評議のために」

(DVD「裁判員制度を支える速記官~充実した評議のために」を作りました。約13分です。
http://msbb.jp/wmv_folder/26Jul_DVD-web.asx

最高裁の対応

 さすがの最高裁も裁判員制度導入は想定外であったように見受けられます。
 国民の参加を可能にするためには,連日的法廷にすることが不可欠で,それには最短でも3日掛かる録音反訳で対応することは不可能です。
 また,視聴覚障害者が裁判員として参加する際の問題もあります。
 最高裁は,速記官の養成再開の声が高まることを恐れて,急いで音声認識の研究に着手しました。
 ・2003年、日本IBMとの共同開発開始、「9割方の正確性で調書を作成する音声認識システムが完成」と宣伝したが、IBMが撤退
 ・2004年、NEC、東芝ソリューションズ、アドバンスト・メディア、アスキーソリューションを含む5社で調査研究、情報収集開始
 ・2005年、研究開発業者を選定するための調達支援の業者としてNHKエンジニアリングサービスを選定
 ・2006年、音声認識システムの研究開発業者としてNECを選定
 ・2007年、東京地裁、横浜地裁、大阪地裁から音声データを収集
大まかこのような経過をたどり、NECだけで既に4億円もつぎ込まれているそうです。この夏、東京地裁において,やっとプロトタイプが設置されました。実務環境に近い場面での実験が行われたようですが、結果は公表されていません。
 東京以外での実験は行わないような雲行きです。しかし全国で使おうということなら各地域の言葉を重視して精度を上げていかなければ、本番機としては使えないのではないか、というのは素人でも容易に分かることです、法廷はその地域の言葉が主役ですから。

 5月末の新聞報道によれば、最高裁は音声認識によって調書を作成することは断念し、インデックス機能として利用するとしています。どういうことかと言うと、評議のとき、確認したい言葉や場面があった場合、そのときに出たであろう、例えば「交差点」という言葉で検索して、一覧された「交差点」から必要な言葉、場面の音と映像を再生させて確認するというものです。ただ、最高裁は80%の認識率を目途としているということですから、インデックス機能としても不完全なものと言えますが。
 しかも、この確認作業は裁判官が担当することになっています。自分の記憶があいまいなことを、その場にいる全員に表明して、評議の流れを止めて確認したいと申し出ることは、実際上かなり勇気のいることです。速記録をペラペラとめくって確認するという程度に簡単なものにならなければ、それは「使えない」と同義です。

 最高裁は,速記タイプのことと言い,音声認識のことと言い,二重にうそをついて速記官制度を廃止に追い込もうとしてきました。その一方で,最高裁は,速記官の技術を正当な評価をしようとしません。それどころか,速記官にステンチュラの法廷での使用を禁止したり,法廷の立会時間を制限したり,パソコンの支給をなかなかしようとしなかったり,旧態依然の速記官の仕事のやり方のままでおこうと策を弄したとしか言いようのない態度を続けてきました。9割以上の速記官が「はやとくん」を使い,8割以上の速記官がステンチュラを使用しているのに,「はやとくん」を見ることも,ステンチュラの支給も行わないのですから、最高裁による速記官いじめとの声があがるのは当然です。

 その結果,評議に間に合うように公判調書を作成したり,視聴覚に障害のある裁判員のために逐語で文字通訳ができなくて,国民にしわ寄せがいきます。
 最高裁に詳しい法律家の間で「音声認識は失敗した」、「だれかのクビが飛んだらしい」と言われているのに、まだやめると言わない最高裁は「裸の王様」だと私は言いたいです。

諸外国では(と言っても一部ですが)

 アメリカには今6万2000人の速記者がいて、そのほかに3000人のリアルタイム速記者がいる(ARCR社のジョディ・ハーモン氏)というのですから、議会をはじめ裁判所、教会、教育など様々な分野で速記者が活躍する速記大国であることは紛れもありません。(「誤判を生まない裁判員制度への課題-アメリカ司法改革からの提言-」(伊藤和子・現代人文社)の第8章に詳しく紹介されている。)
 ハーグの国際刑事裁判所ではリアルタイム速記によって、即時に英語またはフランス語で表示され、午前の審理速記録は午後ホームページに掲載されるとのことです。

 身近な国、韓国のことを紹介したいと思います。韓国では今年の1月から陪審員制度が導入されました。そこでは「法院は特別な事情がない限り、公判廷での審理を速記士をして速記するようにするとか、録音装置または映像録画装置を使って録音または映像録画しなければならない」と明確に速記士による記録作成の定めがされているとのことです。
原文は http://korea.nifty.com/news/News_read.asp?nArticleID=39584

 私は3年前、速記事情を知りたいと韓国を訪問しました。ソウル中央地裁で懇談したところ、全国で400人の速記士がいるが、まだまだ足りないとのことでした。民間経営の速記学院では多くの若者が速記タイプCASに向かって練習に余念がなく、その姿は昔々の私そのものだとの感慨を覚えたものです。若者から矢継ぎ早に繰り出される質問にも圧倒されました。このエネルギーがあのソウル、韓国を盛り上げていることに違いありません。
 中国や台湾でも、法廷視察に行った方から「字幕表示がされていたよ」と教えていただくことがあります。詳しく紹介できるほどの情報がないのが残念です。

おわりに-裁判員制度の評議には速記録が必要

 長々と書いてきましたが、最高裁は裁判員制度において速記録の利用は考えていないことは分かっていただけたかと思います。それは困るということも既に書きましたが、更に聴覚や視覚障害の裁判員への情報保障という観点から書きたいと思います。
 裁判員には心身の障害があるというだけでは裁判員候補者からは除外されることはないと最高裁は説明していますし、それ以前に裁判当事者に障害がある場合があります。そんなとき「はやとくん」によるリアルタイム速記なら字幕表示ができるし、更に文字データから点字への変換も容易にできるわけです。

 現に聴覚障害者の証人や被告人のためにリアルタイム速記によって情報保障を実際の法廷で行ったこともあります。
 東京地裁において聴覚や視覚に障害をもった人が裁判員になった場合を想定した模擬裁判の様子が報道されていました。残念ながら「はやとくん」は使われず、手話通訳だけを用いたとのことでした。
 聴覚に障害がある人は全国で600万人ほどおられ、多くは中途障害者と言われています。
 手話は便利な会話手段ですが、中途で障害を負った人には手話が分からない人がいます。また専門的な言葉、複雑な言い回しなどは手話で伝えられる情報量では足りないとの指摘もよく聞きます。
 特に日本語は表意文字ですから、ちょっと耳慣れない言葉でも文字を見ただけで理解できるという利点もあり、字幕表示の強みが発揮できるのではないかと考えます。
 視覚障害の方には、すぐに点字に変換して提供できるのですから、すべての人に同じ量の情報が提供できるというわけです。
 6人の裁判員と3人の裁判官が、障害のあるなしを乗り越えて対等平等に評議できる場を準備しておくこと、それは障害のある人が参加するしないにかかわらず、誰でもが参加しやすい裁判員制度へつながる道だと思います。
「はやとくん」がそのような場で活躍できること、それが一市民となった私の願いです。

(2008年9月記)